神智学の説く、
    “マイトレーヤと世界五大宗教の関係”





『エーカム サット ヴィップラー バフダー ヴァダンティ』
 <
真理は一つ、しかし、賢者はそれをさまざまな名前で呼ぶ >
                          (聖典『リグ・ヴェーダ』 I16446C)

アトランティス時代の中期に第三イニシエーションを受け、人類の歴史の中で最初に高度のイニシエートになった方々の一人がマイトレーヤ。
彼は当時の師である覚者から“幸いなる者”、“喜びと幸せをもたらす者”を意味する「マイトレーヤ」という名前を与えられた。
このときマイトレーヤと共にイニシエーションを受けたのが兄弟であったブッダでした(ブッダは現在、シャンバラにおられる)。
ブッダは弟子であったゴータマ王子を通して、菩提樹以降の生涯において御自身を顕現なされた。



【仏教】
 ゴータマ王子を通してブッダは、未来における自分同様の仏陀、マイトレーヤ仏の到来についての予言(予告)を残した。
 『その時代には、兄弟よ、マイトレーヤ(慈悲に満ちる者)と呼ばれる高貴なる者が世界に現れる。彼は阿羅漢であって、完全な啓明に達した者である。智恵と正義を備え、幸福なる方であり、世界のすべてを知る方であり、人類を率いる無類の戦士、デーヴァ達と人類の教師にして、高貴なる者、わたし同様の仏陀である。わたしが今そうであるように、彼はその超常的な大いなる力によって世界を見通し、且つ、それによって世界中に、デーヴァ達の世界にも、マーラー(魔王)達、ブラフマン達、出家僧達、バラモン達、デーヴァ達にも人類と同様に、その人であると知られるであろう。
 彼はその時代の初めおいて、その時代の中頃において、それゆえ、その時代の終わりにおいても、巧みに規範を公布するだろう。彼は純粋さにおいて、その中に含まれる霊と言葉の意義の両方において、完全無欠で正しい姿の正命を、わたしが今それをなしているように、人々に示すであろう。私が今、何百人の比丘と比丘尼の教団を率いているように、彼はその時には何千人もの兄弟団を率いるであろう。』  (ディーガ・ニカーヤ第六経『転輪聖王修行経』より)


【ヒンドゥー教】
 マイトレーヤは、弟子であったシュリ・クリシュナを通して顕現されました。また、後にはシャンカラとしても顕現した。マイトレーヤはクリシュナの顕現の際に、御自身の未来における帰還を約束なされた(また、ヒンドゥー教徒の大衆は、ヴィシュヌ神の化身の出現としてカリ・ユガ期の終わりに白馬に跨って到来するというカルキ神を待っている)。

 『到るところに、法の衰退と無法の出現があるときはいつでも、わたしはわたし自身を顕す。正しき者たちの救済のために、悪事を働くような者たちの撲滅のために、神の法のしっかりとした確立のために、わたしは、時代から時代へと、出現する。』
(バガヴァッド・ギーター第47-8節)


【キリスト教】
 ユダヤ教の救世主メシアであったイエスは彼らに認知されずに磔刑にされた。そのイエスをバプテスマ(洗礼)以降〜十字架までの3年間をイエスを通して顕現されたのがマイトレーヤ。このマイトレーヤのハイアラキーにおける役職地位がキリスト(世界教師)である。つまり、イエスは3年間をイエス・キリストとして行動され、未来におけるキリスト(マイトレーヤ)の再臨を宣言なされた。

 『街に入りなさい。そうすれば水を土器に入れて運ぶ男に出会うだろう。彼に従って階上の部屋に入りなさい。そこでは会食の準備がなされているでしょう。』(マルコ伝第1413-14
 『このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』(ルカ伝第1239-40節)
 『見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。』(ヨハネの黙示録第1615節)

【ユダヤ教】
 ユダヤ教徒は彼等の救世主メシアの到来を今でも待っている。もちろん、マイトレーヤがそのメシアである。

【イスラム教】
 預言者マホメッドは、マイトレーヤの弟子であったイエス覚者によってオーバーシャドゥされた(弟子の肉体を通して顕現する覚者方が通常よく使われる手法)。イスラム教徒は、救世主イマム・マーディの到来を待っている。これはマイトレーヤのことである。



参考画像:

  水瓶を持って立つマイトレーヤ・ブッダの尊像

  (古代においては、弥勒は菩薩ではなくて弥勒仏陀と呼称されていたという。
 ガンダーラ像の水瓶を持っている姿の理由は学術的にも不明とされている。
 神智学徒は、これがアクエリアス・エージ、つまり宝瓶宮/水瓶座の時代の始
 まりにおける帰還を意味するものとして理解する。
  それと、オーバーシャドゥによる人格の二重性質という問題が聖典内容の
 矛盾解消の理解を提供するカギになるものと私は見ている----宝珠)





 



 以上


宝珠編著     2013. 03. 09
聖句追記     2018. 04. 25
フォント色変更  2018. 11. 29



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