仏教の涅槃と

バラモンの梵我一如は同一の境地




私は、

仏教の説く境地である「涅槃(ニルヴァーナ)」とバラモン教の説く「梵我一如」とは同義ではないかと見ています。

つまり、涅槃を覚知(自覚)している意識が、すなわち、「アートマン」なのです。

涅槃の境地とは意識の状態のことであり、それは一切(有為)を超越した縁起/空の及ばない「無為」の領域です(パーリ経典小部第三経 『ウダーナ8)

そこは涅槃に到達した者にしか知覚することのできない境地であって、アートマンも同様なのです。

ブッダは、「自性清浄心 (パーリ増支部) 」をアートマンの別意として説いたものと思われる(大乗の「仏性」、後の「如来蔵」に発展)

 

以下に、

著名な研究者の中から、仏教とバラモン教(及びヒンドゥー)の目指す境地は同一のものである、

もしくは、非常に酷似したものであるとして見なしている方々の一文を紹介します。
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宝珠




 

ブッダは正しいアーリア文化の回復者

 『ブッダは反ヴェーダ的自由思想家の一人であり、正統バラモン思想の否定者と見なされるが、 必ずしも単なる否定者ではなかった。ブッダはヴェーダやウパニシャッドの宗教・哲学の陥った過誤を正して、アーリア人の本来あるべき真面目を回復するとともに、これを新時代に適応すべく自らの見解を開陳した。つまり、ブッダはアーリア文化の回復者であったといえよう。』

 (早島鏡正・高嶋直道・原実・前田専学著『インド思想史』東京大学出版会刊)

 

過去七仏の概念はリグ・ヴェーダから

 『仏教によれば、ダルマをさとった人がすなわち覚者なのであるから、覚者はいかに超人化・神化して考えられようとも、決して唯だ一人の人格的存在者であるということはできない。ゴータマのほかにもなお覚者が存在し得るはずなのである。そこで過去未来の諸仏と現在における一人の仏を立てて考える。特に過去七仏の観念は古く成立し、その名称はすでにガーターの中に伝えられている。

 過去七仏とはパーリ語でヴィパッシン(Vipassin)、シキン(Sikhin)、ヴェッサブ(Vessabhu)、カクサンダ(Kakusandha)、コーナーガマナ(Konāgamana)、カッサパ(Kassapa)および第七に釈尊をいう。そうして仏は「第七の仙人」と呼ばれている。過去七仏の観念がもとをたどれば、『リグ・ヴェーダ』に由来することは、すでに指摘したとおりである。』

(『中村元選集・11巻・インド仏教の諸問題』春秋社P.515516

 

目指す目的は同じ

 『涅槃の語は仏教以前から存在したらしく、---中略---しかし涅槃と同じく生死輪廻を超えた悟りの境地として、バラモン教では古くから不死(amrta甘露)の語があり、仏教でも不死は涅槃の同義語とされた。』

(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』p170-171新版第1/春秋社刊)

 

涅槃と梵我一如の境地は同一

『以前京都の佛教大学で学んでいた頃、T先生という方にご指導を頂きました。仏教概論の講義だったと思います。私はT先生が『ヨーガ ・スートラ』というヨーガ教典の研究もなさっているのを存じていたので、講義のあとで個人的に質問しにいきました。

「先生。仏教でいう『涅槃(ニルヴァーナ)』とヒンドゥー教でいう『解脱(モクシャ)』は、教えはともかくとして、実体験としては同じものでしょうか。それとも違うのでしょうか。」

先生は「う〜ん」としばらく下を向いておられました。少しドキドキしながら待っていたところ、先生は顔を上げてこう仰ったのです。

「同じだと思います。」---中略---

ですから「仏教の覚りもヒンドゥー教の覚りも同じ」というのは、仏教者としては中々言いにくいことなのです。私も若かったので、先生が答えにくいことを承知で質問をしてしまいました。(済みません!)

それ以来、T先生への尊敬の念を深めたのは言うまでもありません。

  究極の宗教体験という意味では、宗教・宗派の差はないのではないか。私は今もそのように思っております。』

(浄土宗林海庵/コラム倉庫『宗教体験、そしてそれを語ること』)

 

『このように解釈することが許されるとすれば、原始仏教にも涅槃や如来はアートマンとする考え方があったことが判る。そうすれば、原始仏教がアートマンが存在すると説かなかったのは、原始仏教の教えが凡夫を主題として、仏の境地を説くことがなかったまでの話ということになる。

 もしそうなら、仏教のアートマンは実はウパニシャッドが説くアートマンと同じようなものを指していたと解釈することができるかもしれない。ウパニシャッドでもわれわれ衆生がアートマンと合一していないから輪廻を繰り返すとするのであって、構造的には仏教と共通しているということができるからである。』

( 章司著『死後・輪廻はあるか--「無記」「十二縁起」「無我」の再考--』)

 

 『この点は、仏教以前の正統バラモン教が、ウパニシャッドにおいて、梵我一如を正しく知り、それを体験することによって、理想が達成されるとしていたのに似ている。ウパニシャッドでは梵我一如の境を涅槃の語によって呼んではいないけれども、この境地は「非ず、非ず」(neti neti)と云われているように、筆舌に尽くすことの出来ない大歓喜の自由境であるとせられているから、実際には仏教の涅槃が意味しているものと、それ程違ったものではないであろう。(p126-127)』

(水野弘元著『原始仏教』02年第16/平楽寺書店)

 

『私は、ブッダの涅槃の境地も、バラモンの哲人たちの梵我一如の境地も全く同じものなのだ、と確信しております。インドに於いては、仏教も外道もない、真理は一つ、真実に実在する(と彼らが確信している)世界は一つなのです。

 この点ではヴェーダーンタとかサーンキャとか、インド哲学の主要な体系も、すべて同じことなのです。彼らは皆その同一の有を、ただしそれぞれの視位から、それぞれの制約に於いて見ているのです。ブッダも同じなのです。』

(津田真一著「密教とブッダの根本的立場」『大法輪』889-10月号)

『以上のようにブッダは(1)まったくウパニシャッドのアートマンの思想を否定し、新たな何らかの自己を説かれたのか、(2)ウパニシャッドのアートマン思想は受け入れてもそれをうる方法に相違があったというのか。これら二点に解答を与えうると思われる例証を指摘することができる。

 「私(ブッダ)梵となりたる(もの) であり、無比であり、魔軍をほろぼしすべての敵を屈服させ、おそれることなく喜ぶ。」(Sn.561)

この例に類する詩句は、563にもあり、そこでも傍点の部分は同じである。これはバラモンのセーラとの対話の中で述べられたもの。「梵となりたる<もの>」はbrahma bhu^taが原語であり、これは最高であり絶対なる存在であるブラフマンとなったものという意味である。ブッダはこのように自称された。この部分の翻訳では学者によって異なるが、ブッダ、あるいは原始仏教の我説を考える場合には特に注意すべき表現句であるといえる。この場合は、率直にブラフマンになったものと訳して良いと思う。かくして、ブッダは「ブラフマンとなった人」である。

 また、バラモンのマーガが、どのような人が解脱し、現身をもって梵天界(Brahmaloka)に行けるか教えてくれるように、ブッダに懇願し、

さらに、

  「私(マーガ)はいま梵(brahma)に遭うことができた。あなたこそ本当に梵(brahma)と等しい方である。光明をもっている方である。どうすれば梵天界に生まれるのか。」(Sn.508)

と尋ねた。これに対してブッダは親切に梵天界に生まれる方法を説かれる。

 ここで注意すべきことは、マーガがブッダに対して、ブラフマンに遭えたとか、ブラフマンに等しい 方であるとか言っているのに、ブッダは何の反応も示されずにその呼称・表現をそのまま受けておられることである。なぜなら、もしブッダがウパニシャッドのブラフマンを否定されたのであれば自分自身をブラフマンと呼称されることを拒絶され、正しい呼称を教えられたに相違ないからである。考えるにブッダはブラフマンの存在を認め、したがってアートマンの存在をも同時に認めておられたのではないか。前の例証のように、ブッダはブラフマンになった人であるから、他の人からブラフマンに等しい方、ブラフマン!と呼称されても当然だと思っておられたのではないか。かくてブッダの自己とはまさにブラフマン即アートマンのアートマンであったと考えられる。ただこれらの二・三例でもって即断することは危険であるが、『スッタニパータ』でこのような表現が伝えられていることは、初期の段階では、注目すべき点だといえる。

 右の考察によって前掲の仮説の(2)がブッダの立場であったのではないかという結論になる。

 ブッダはブラフマンになった人である。最高の存在者である。それはすなわちもともと一如であるアートマンとなった人をも意味する。ブッダは哲学的にではなく、実践的論理的に追求しアートマンとなった人である。それは生きながらえてなった人である。事実現象界に生存しておられる。ブッダは現象界にありながらそれを超えておられる。ブッダは現象界を超出した存在でありながら同時に自ら内在するアートマンを見、それを帰依処としておられる。』

(田上太秀著『ブッダの自我と無我について』)



宝珠真範🌸迦楼羅/ .編 2016.10.01

2020.05.23 浄土宗林海庵/コラム倉庫『宗教体験、そしてそれを語ること』 を追加

2018.04.14 田上氏論文からの抜粋を増量

2017.11.18 序文 訂正加筆

  

  

 

 





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