論題



 『江戸時代になって、大乗経典はブッダの直説ではないから仏説ではない、とする大乗非仏説論などが唱えられるのも故無しとはしないのである。
 それにもかかわらず、私はそれがなかったら仏教ではないという意味においての、仏教の基本の思想、世界観は厳として存在すると思っている。
 確かに釈尊の教えと後代の仏教、特に大乗仏教の教学は大いに違っている。思想の営みとしての奥行きと幅は大乗仏教のほうがはるかにまさっている。中国、日本の発展した仏教の思想が釈尊のそれと同じはずがない。山本氏(注)が言うように、釈尊の教えの枠組みでは後代の仏教の教学を盛り込むことはほとんど不可能であろう。しかし、そうした多彩な教学を生み、育てた根本には同じ真実が横たわっている。この真実のことを仏教では「法」というが、例えば、無常、無我、縁起、空などといった言葉によって示され、実践され、仏教者の生活の中にはたらきだされてきた真実である。(p13-14
 だから、どんなに教の外的な形態が違い、実践の方法が異なろうとも、法が踏まえられている限りにおいては、仏教は釈尊の教えであり、仏説であることに変わりはない。釈尊の教えと、例えば密教、浄土、禅、日蓮などの思想と実践がいかに異なろうとも、仏教としての一貫性は「法」の存在とその実践、つまり生活の中へ法をはたらかせつづけることにおいて、保たれている、と私は考えている。(p16)』(奈良康明著『釈尊との対話』NHKブックス刊)

(注)『かつて山本七平氏は梅原猛氏との対論で、仏教は釈迦の枠でとらえられるか、との疑問を提示している(『人間としてみたブッダとキリスト』)。』(同著)---(注)は宝珠により挿入


 大乗仏教を支持されている方の見解というのは、恐らくこういうところにあるのだろうと思われます。
 しかし、仏教の根本義としての法、すなわち“無常、無我、縁起、空”などが説かれてさえいれば、あとはどんなに本来のゴータマの教えと異なったものになっていようともOKなのでしょうか?本当にそうですか?
 私は、大いに疑問に感じるのです。大乗の発展と拡大とは、本当は仏教の本質を見失った後退(退化)ではなかったでしょうか?



 宝珠愚者 2009.10.9

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