ブラヴァツキー懐疑批判に異をとなえる




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英国心霊研究協会(SPR)はホジソン報告について謝罪した

 殆どの懐疑論者たちはかつてのホジソン報告を盾にとってオウム返しのようにただ同じことを述べて、ブラヴァツキー夫人を“ペテン詐欺師”、呼ばわりするだけであり、とっくの昔に当の英国心霊研究協会(SPR)がホジソン報告を否定し、謝罪していることを知らない。だから、彼らは目新しい話は何一つ出すことができない。また、知っていてもこのことを取り上げる人は皆無に等しい。そういうことで、日本においては殆どこのことが知られていない。
 その理由としてはこの二点をあげることができる。まず一つは懐疑論者にとっては神智学と夫人が如何わしいインチキとペテン師であるとすることに十分満足なのであり、その懐疑についての真相などは実際どうでもよい。もう一点は、批判に晒されている側である筈の神智学者らは、これらの懐疑批判に対してはかなり無頓着であり、正直いって殆どあまり気に掛けていない。つまり、学んでいる深遠な教えについての自信を持っており、「いいたい者にはいわせておけ!」的な心境を彼らの常としているからだ。また彼らは、世間の批判や懐疑は当然のものとする覚悟について最初から自覚しているし、そして、無益な論争を避けるといった“沈黙”の姿勢と呼ばれる美徳についても教えられているからです。よって、目くじらを立てて反論に躍起になったり、名誉毀損で闘うといったことはまず見ることがない。そういうのは実際、カルト性の高い新興宗教系の信者らの側によく見られる傾向があり、神智学の基本精神にはない。
 このサイトページは、ブラヴァツキー夫人と神智学(協会)の信頼性を回復し、その素晴らしい教えと活動が如何に世界の平和と進化とに貢献しているかを知らせることを目的とします。
以下に、日本においては殆ど知られていないものと自負する貴重な資料の数々から抜粋引用を紹介し、ここに提示します。



 『晩年はベルギーのオストエンデ、そして最後にロンドンに拠点をかまえ、多忙な仕事を続けるなか、189158日、机に向かったままこの世を去った。
 なお、HPBHP・ブラヴァツキー)の遺灰は、ヨーロッパ、アメリカ、インドに三分の一ずつ届けられたそうだ。インドの分は後継者のベサントによりガンジス河に撒かれたという。また1986年になって、SPR(ロンドンの心霊研究協会)は、HPBの欺瞞性を暴露したといわれた「ホジソン報告」(1884年)について亡き夫人に謝罪し、百年来の論争に終止符を打った、とのことである。』
HP・ブラヴァツキー著『インド幻想紀行』筑摩書房刊-解説「魂の遍歴」高橋 巌筆)

 『しかし、その疑惑の真相はたわいないものだった。クーロン夫妻の妻のエンマは神智学協会本部にいた頃の自分の待遇に不満を抱いていた。夫のアレクシスは文書偽造のプロだった。神智学協会を追い出された2人はブラヴァツキー夫人を陥れるために夫人の手紙を偽造したのである。ホジソンはその陰謀に利用されたというわけである。
 1986年、SPRはホジソンの調査は不徹底だったとしてその内容を否定し、ブラヴァツキー夫人に謝罪している。------
 1986年、SPRの研究員だったヴァーノン・ハリソンがホジソンの報告書の結論を否定する発表を行ったというのは事実である。しかし、それは新資料の発見で過去の知見が修正されたものというより神智学協会との政治的和解という意味合いで理解すべきものである。その内容はホジソンの報告を彼個人の見解とし、ホジソンは彼自身とブラヴァツキー夫人との対立にSPRを巻き込もうとしたとするものだった。』
(
『謎解き 超常現象4』彩図社刊)

  (『謎解き 超常現象4』は「と学会」類似の唯物主義者らによる懐疑論書です。当然、超常オカルト現象などは信じない連中による解説本なので、『シークレット・ドクトリン』(SD)についても懐疑論者側の浅はかな評価を鵜呑みにしているが、ホジソン報告の間違いとSPRからの訂正謝罪の件については正直に正しく伝えているので一応、取り上げておきます)


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当時のホジソン報告の経緯について

 『セイロンにいた夫婦は訪ねてきて住み込みで無給の家政婦兼雑役夫として働いた。エマは「自分が低級な仕事をさせられているのは、彼女の旧友で保護者でもあるブラヴァツキーが自分を軽んじているからだと考えた」という。夫は野心家の妻の言いなりであった(「神秘主義への扉」ピーター・ワシントン著、第4章)。
 18842月ブラヴァツキーとオルコットはイギリスに向かった。出発の前にブラヴァツキーはエマと金銭の問題で喧嘩をしたという。ロンドンとアディヤールとの間でエマ自身の地位とお金の問題で、何度も手紙のやり取りがされたが決裂した。エマは協会の評議委員会に訴え出たが逆に協会から解雇された。エマは解雇された腹いせから、トリックを暴露した手紙の束をマドラス・キリスト教大学学長のパターソンのもとに持ち込み、それらが18849月「キリスト教大学マガジン(クリスチャン・カレッジ・マガジン)」に掲載された。このことによって、それまでの騒動が神智学協会の枠内であったのが、神智学協会の枠を超えて大きく広がり収拾がつかなくなってしまった。この真偽を解明するために、ロンドンの心霊研究協会はホジソンをアディヤールに調査派遣した。』
(『ブラヴァツキーの神智学について』)

 『1884年、神智学協会のインド上陸からすでに五年の時が流れ、彼らの南アジアにおける地位は盤石にみえた。ブラヴァツキーは安心してインドを離れ、ヨーロッパへの旅行に出かけられると判断した。油断といえばあと知恵だが、これがいけなかった。「HPBを崇拝することで始まり、最後にはHPBを憎むことによって終わった」クーロン夫人は、主人の留守を狙って、『クリスチャン・カレッジ』誌の編集者であるキリスト教伝道師に「告白」(つまりタレコミ)をしたのである。HPBを憎んで止まぬインドのキリスト教関係者は色めきたった。チャンスだ!
 クーロン夫人は「HPBがクート・フーミ(神智学を霊的に指導するマハトマのひとり:筆者注)の人形を造り、月夜にそれを肩にかついで歩き回ったとか、マハトマから届いたと称する手紙を晩餐の席上で、二階の部屋から天井の隙間を通して落とすことによって「超自然的に配達された」かのようにみせた」(『オカルト』C.ウィルソン)などなどのスキャンダルを次々に暴露していった。スキャンダルの炎はすぐHPBのいるヨーロッパにも飛び火した。
 ブラヴァツキーに「いかさま師」のレッテルを張った英国心霊研究会(SPR)は主観性と思いこみが命の心霊現象に対して、科学者らしき距離を保った心霊研究の権威であった。しかし、ホッジソンの調査が果たして公平なものだったかは疑問が残るところだ。なにせ彼はHPBがロシアのスパイであり、インド人たちに“英国支配への反感”を植えつけようと画策した、とまで示唆しているのだから。それでも、敵の論証は神智学協会を大混乱に陥れるには充分のインパクトを持っていた。
 小康状態を得て急遽インドに引き返し、告訴も辞さないと息巻いていたHPBも、組織防衛をはかるオルコットらの説得を受けてインドを立ち去ることを決した。1885年三月末のことである。近代オカルティズムの巨魁は、こうしてインドから、事実上「追放」された。
 ドン・デヴィットは、コロンボに立ち寄った船の上で、ブラヴァツキー夫人ともはや生涯最後となる別れを告げた。もちろん、ダルマパーラは終生一貫して、HPBは単に「バカげた陰謀の罪のない犠牲者」であり、「彼女は仏教徒であり、また仏教徒であるヒマラヤのマスターたちの代行者であった」と信じ続けたけれど。
 ブラヴァツキーは残りの生涯を主にロンドンで過ごし、当地のオカルトサークルでもトラブルメーカーぶりを存分に発揮しつつ、晩年の大著『シークレット・ドクトリン』(SD)を書き上げた。やがて同書の熱心な読者であったアイルランド出身のアニー・ベザント夫人(もとはフェビアン協会の社会主義者で、一時はバーナード・ショーの愛人でもあった)と出会い、幸いにもHPBは神智学協会の未来を託すべき後継者を得ることもできた。1891年五月八日、ヘレナ・ペトゥロヴァ・ブラヴァツキーは六十歳で死んだ。』
(佐藤 哲朗著『大アジア思想活劇 〜仏教が結んだもうひとつの近代史〜』サンガ刊)



 すべては逆恨みに始ったクーロン夫人に拠る陰謀と罠でした。ブラヴァツキーが留守の間に様々な心霊現象のトリックとなる仕掛けを施したのです。「マハトマの人形を造り、月夜にそれを肩にかついで歩き回った」とか、「マハトマから届いたと称する手紙を晩餐の席上で、二階の部屋から天井の隙間を通して落とす」といった、そんな恥ずるべき馬鹿馬鹿しい行為などブラヴァツキーは一切しない。


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ブラヴァツキー驚異のオカルト現象能力

 彼女がもたらす超自然現象は、暴露の対象とされた協会の屋敷内に限らず、どんなところでも起きた。それを証言する多くの目撃者がいた。挙げればキリがないので、目に付いたほんの一部だけを紹介します。

 『夜、彼女が私にあることを人々に忠告するように言ったとします。「ブラヴァツキー夫人のおおせです」と言って、私はその通り忠告します。すると、23日後、その夜聞いた教えをそのまま書いた手紙が来ます。夜、教えられた時から手紙を受け取る時まで23日では決して船便はつかないので、彼女は私に夜、連絡するより前に手紙を出していたのです。------
 ある時、私は少し離れたある所で間もなく起こる死を予告されました。また、その頃、私はある人を信頼し、いろいろと教えてもらっていました。その人は霊的なことに精通しているようにみえて、私の心に影響を与えていました。ある晩、HPBがこの人を私の所に連れて来て、その人の体から皮膚をはぎとり、病気でひどい状態になってる内臓を私に見せました。それからHPBは部屋の隅を指さしました。輝かしい星が天から流れ降って、深淵に落ちて行くのが見えました。HPBは合図をしました。(彼女の「言葉」はエーテルを貫いて振動する一種の「手話法」で、思いとして私の脳に入って来ました。)その手話とジェスチャーは、「落ちる星に頼るな」という意味でした。これはすべて事実となりました。恐ろしい、悲しい事実でした。こうした出来事は続けて起こりますが、ブラヴァツキー夫人の死後は起こり方が違ってきました。』
(『RS・の手紙---HP・ブラヴァツキー夫人の回想録より』)
 
 『日常生活の中で、彼女には全く自然なことかもしれませんが、第三者には驚くようなことは度々あったそうです。彼女と一緒の仕事(「シークレット・ドクトリン」の)をしていた人たちは、あまりに度々、不思議なことがあるので、驚くのをやめたと言われています。その一例として、アメリカのあるインテリ紳士の話をあげてみましょう。その人はその時、ブラヴァツキー夫人の部屋にいました。夫人は煙草に火をつけようとしましたが、マッチ箱が空でした。彼女の頭上にランプが点いていましたが、とても高く、それから火をつけようと思えば椅子の上に立ち上がらなければなりません。すると、ランプに届くまで彼女の体はだんだんと伸びて行くのを彼は見たといいます。少なくとも彼にはそう見えたそうです。そして火をつけると体は椅子の中に元通り沈み込むように縮まり、彼女は書きものを続けたということです。』
(『ブラヴァツキー夫人のこと』田中 恵美子著)



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ブラヴァツキーは最初から懐疑者の餌食だった

 ブラヴァツキーは最初から懐疑論者の格好の的でした。彼女が女性ということもあってか、また更にロシア人であったことなども偏見と決めつけの原因だったものと思います。
 彼女は、最初の頃は神秘と超常現象の科学的解明という立場を摂る心霊研究には大変、好意的でしたが、後に心霊主義は神智学の目指す深遠な真理には導かないものとして否定するようになります。彼女は自分が霊媒などと呼ばれることを酷く嫌いました。このことが、当初は協力関係にあった筈のSPRに敵対意識を呼ぶキッカケになったのです。元々、キリスト教批判の姿勢にあったブラヴァツキー率いる神智学協会を忌み嫌っていたキリスト教側ともSPRの思惑は見事に一致しました。

 『日本人智学協会代表の高橋巌氏は「ブラヴァツキーを論じる場合は、始めから彼女は法廷の被告席につけられている。そして論者は自分の狭い常識の範囲内にある先例に従って、彼女の“非常識”を断罪する・・」と述べて、さらに「ブラヴァツキー夫人の思想や行動について、たとえどれほど否定的な意見が提出できたとしても、誰にも反対できない事実は、彼女がヨーロッパ人のいわゆる白人コンプレックスから完全に自由であったことであろう。彼女にはヨーロッパを他の世界諸地域よりも文化的に優位なところに位置づけようとする発想は全くなかった」(「ブラヴァツキー著“霊智学解説”に寄せて」より)として業績を肯定的に評価している。 』
(『ブラヴァツキーの神智学について』)

 『1874年頃、HP・ブラヴァツキーがオカルティズムや心霊主義について論文を書き出して間もなく噂話の種となった。25年ほど全世界を遍歴して、輪廻やアストラル体やチベットの師匠方について教え、何気なく霊能力を発揮して、神秘の眼で人の心を読むこのロシアの貴族夫人は「19世紀のスフィンクス」と名付けられた。人々はそのスフィンクスの謎を解明しようと、様々な説明を考え出したが、好い加減のものが殆どであった。
 新しい教えを伝える者は必ず、古い考え方の人々によって攻撃される。HPBの「神智学」は従来の宗教・哲学のエッセンスを伝えたに過ぎないが、19世紀の「文明人」にとって彼女のメッセージは革命的に思えた。人々には、古代文化と東洋思想は近代文明よりもずっと勝っており、新しい時の文化の基礎となるべきであるという考えを受け入れる用意がなかった。
 ブラヴァツキー夫人は議論家として優れ、考え方が非常に論理的である。だから彼女を攻撃する霊媒や牧師や学者たちは、HPBの思想には殆ど触れず、彼女個人を散々中傷した。勿論そうした中傷には事実性はないが、一般人(学者やジャーナリストを含めて)はゴシップが好きなので、噂が広がり、そのうち「事実」として受け入れるようになった。
 学者の大部分は賢い男性であるが、賢い男性が一番嫌いなのは自分よりもずっと賢い女性である。それが第一理由だと思う。
 しかし、現在の欧米学術界では、ブラヴァツキーと神智学を考え直す傾向がすでに現れている。一方、日本では殆どの学者は人づての情報をそのまま受け入れている古い著者の意見を鵜呑みにする。ブラヴァツキー著作の難しい英語を読んで理解できないので、彼女の思想と性格を新しい見解から見ることができない。誤訳や誤った情報が驚くほど多い。
 当時、「アンチキリスト」のブラヴァツキーは母国で忌み嫌われた。勿論、その頃、英国政府はすべてのロシア人はスパイだという妄想を抱いて、インドに住んだブラヴァツキー夫人に探偵をつけた。2年ほど彼女を調査したのに、スパイであるという証拠は少しも出なかった。
 霊媒と違って彼女は随意に現象を行うことができたので、誤魔化しをする必要はなかった。彼女が行ってきた現象の多くは、証拠書類でよく立証されているのに、まやかしものと立証されたものは一つとしてない。
 勿論、心霊現象をすべて否定する者は、HPBの現象もまやかしものと前もって判断するが、そうした先入観は無知から生じる偏見に過ぎない。
 マハートマ・レターズには偽作はない。HPBを通して届いたものとそうでないものとがあるが、いずれの場合も大使方の筆跡に変わりない。コンピューターによる筆跡の分析によると、HPBが大師方の筆跡で書くことは在り得ない。そして大師方が弟子にご自分の筆跡を真似させる筈がない。
 HPBは「プリシピテーション」という方法、「心霊FAX」とでもいうべき方法で手紙を作ったが、手紙の内容を勝手に変えたことはない。』
(『噂のブラヴァツキー問答』ジェフ・クラーク著)


 マハートマ・レターズとは、ブラヴァツキーがコンタクトをとっていたチベットの大師方との通信に使用された書簡です。中でも主要協会メンバーだったAP・シネットが夫人を仲介して始まったものは、サイキックポストと呼ばれたもので、シネットの手紙を夫人の額に乗せることでチベットの大師に内容を送信。大師からの返信は、数日後、鍵を掛けられたシネットの机の引き出しの中に手紙として入っているというもの(当然、鍵はシネット本人しか持っていない)。これは40年後にイギリスで『シネットへの大師の書簡』と題されて書簡集が刊行された。手紙の原文は今日でも大英博物館に保存されている。


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『シークレット・ドクトリン(秘密教義)』の真実

 『この本を分析したウイリアム・エンメッテ・コールマンは、その内容が近代の科学書やオカルト書の寄せ集めであること、超古代に書かれた「ジャンの書」から引用したとされる詩が、古代サンスクリットの聖典「リグ・ヴェーダ」に出てくる詩とそっくりであることなどを指摘した。オックスフォード大学の比較言語学教授フリードリッヒ・マックス・ミュラーも、「容易に入手できるバラモン教や仏教の書物に、その出典が発見できないものは一つとしてなかった」「マダム・ブラヴァツキーの密教は何かと問われれば、誤解され、曲解され、戯画化された仏教であると答えるだろう」とコメントしている。』
(と学会著『トンデモ超常現象99の真相』洋泉社刊)


 このような批評は全くのデタラメであり、ブラヴァツキーの信用を失墜させて陥れようとする最も卑劣なものです。神智学の思想が古代宗教の寄せ集めなどという悪評などは典型的な中傷です。神智学の目的がそもそも東西の古代宗教が説いてきた真理の発掘と全ての宗教の統合を目的に掲げているので、それは当然のことなのです。
 以下に、知られざる『シークレット・ドクトリン』についての真実を紹介します。

 『ウイリアム・ヘーベ・シュライデン博士という法学博士で弁護士はHPBの支持者の一人でした。この人は1886年の1月のはじめにHPBを訪ね、彼女の書斎に泊まりました。彼は次のように書いています。「1885年の10月にHPBを訪ねた時には、彼女はSDを書き始めたところだったが、1886年の1月にもう約十二章を終了していた。彼女は早朝から夕方まで終日原稿を書いており、来客がなければ夜も書いている。彼女はまるで何かを写しとっているように書いていたが、本は何もなかった・・・」そして彼は誰も知らぬ夜半、マハートマKHHPBの原稿に不思議なお手伝いをして下さった跡を見ています。』
(『「シークレット・ドクトリン」について』田中 恵美子著)

 『この本(『ヴェールを脱いだイシス』)が出版されると、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙は「今世紀の驚くべき作品」と書評した。膨大な引用、神秘学から自然科学に至るまで各分野にまたがる考察と厳密な論証・・・まさに画期的な内容だった。それにもまして、多忙を極めた3年足らずの間に、家庭教師による語学教育を受けただけのブラヴァツキーにこれだけのものが書けたこと自体、驚くべきことだ。
 「書いているのではなく、イシスの女神が個人的に私に見せて下さるものを写しとっています。・・・イメージが遠くから漂い出てきてわたしの前を過ぎていくのです」
 ブラヴァツキーは妹ヴェラへの手紙にこう書いている。オルコットも傍らで書いているところを見ていて、奇跡としか思えないと証言している。しかし、ブラヴァツキーは奇跡ではなく、守護の大師が背後で助けてくれていることを知っていた。そうでなければ、到底、考えられない作業なのだ。
 近代オカルティズムの母と呼ばれるブラヴァツキーを理解するには、その二大著書、中でも『シークレット・ドクトリン』を読むことだと言われている。
 だが、これがとても難解なのである。キリスト教の『聖書』やイスラム教の『コーラン』、仏教の“諸仏典”のように、教義を分りやすく解こうとする聖典類とは全く異なるからだ。
 どの程度、難しいのか。『シークレット・ドクトリン』の前著である『ベールを脱いだイシス』にはなんと1400冊もの書物から2100箇所もの引用がなされていたことが、アメリカの文献学者によって実証された。これが多忙を極めた一人の女性によって書かれたこと自体、大変な驚きなのであるが、後著となると更にスケールを増す。それも多方面の分野に渡っているから、英語国民(原著は英語)でも理解するのは大変だという。
 『シークレット・ドクトリン』は二部から成る大冊で、内容は宇宙発生論と人類起源論から成っている。前著と共通するのは、秘密を剥ぎ、真実を明らかにしようとする意味の題名である。題名通り、ブラヴァツキーは古今東西の叡智を集結して、霊的法則を読者に提示しようとしているのである。一例を上げよう。
 <原子は弾力があって分割することができ、亜原子で構成されている。・・・オカルティズムの全科学は物質の幻影的性質と原子の無限の分割性の理論の上に築かれている・・・>
 これが、原子がまだ分割することができる確認がされていなかった1880年に書かれたことを思えば、まさに驚異といえよう。
 ブラヴァツキーは、数限りない超自然現象を行いながら、「奇跡というのは、ない。すべては宇宙の霊的法則に拠っている」と生涯、言い続けた。『シークレット・ドクトリン』は、その法則を明らかにしたものである。キリスト教会や心霊主義者たち、物質万能の常識人たちによって故意に無視されているが、それは難解という理由の他に、そこに途轍もない真実が語られているからとも言えよう。』
(『マダム・ブラヴァツキーの驚異の生涯』くとうおん著)

 『 [帯の文章] シークレット・ドクトリンとは、あらゆる宗教や古代思想の源である「秘められた叡智」(秘教)の体系を指す。本書は1888年に出版されて以来、アインシュタインやカンディンスキー、イエーツやモンテッソリなど20世紀を代表する西洋の思想家や科学者、芸術家たちに多大な影響を与えてきた。H・P・ブラヴァツキーは、アジアの人々に自分たちの宗教的、文化的伝統の尊さを自覚させ、アジアの精神的復興に大きく貢献した。(東大名誉教授 中村元)』 
(UTYU PUBLISHING)


 実はアインシュタインの愛読書が『シークレット・ドクトリン』(この驚異の書には原子の分割性が説かれていた)であったといわれている。悲しいことに最終的には原爆の生みの親ともなったアインシュタインでしたが、彼も心から夫人を敬愛する方の一人でした。

 『生涯の最後の10年間が近づくにつれ、HPBは次第に隠遁するようになり、不健康と闘いながら、著作と教えに焦点を当てた。1877年に2巻本で発刊された彼女の最初の主要著作『衣を脱いだ女神イシス』は、東洋哲学の根本的な主張を取り扱っていた。それは即座に成功を収め、発売後10日間で1.000部を売り上げた。その本はコーネル大学のコーソン教授のところに滞在している間にアメリカで書かれたものであった。教授は次のように報告している。
 「彼女はあらゆることについて深遠な知識を持ち、その働きぶりはとても型破りなものでした。彼女は、朝の9時から、煙草をプカプカふかし、ベッドに入って書いていました。その当時、アメリカには全くなかったと私が断言できる、何十冊もの本から原文のまま長い段落を引用し、簡単に数ヶ国語から翻訳し、時折、書斎にいる私を呼び出して、古風な語法を文学的な英語に直す方法を聞いていました。その当時は、『シークレット・ドクトリン』を際立てていた流暢な言葉の言い回しをまだ体得していなかったからです。他の人々によると、HPBは利用できる場合はどこでも実際に本を使いましたが、利用できない場合、彼女はアストラル光や自分の魂の感覚を使うことによって引き出したそうです」
 クランストンは、『シークレット・ドクトリン』が過去一世紀にわたっていかに科学や文学や芸術の分野で影響力を及ぼしてきたかを立証している。HPBは、ダーウィンの説に同意する、高まりつつある風潮に積極的に異を唱えた最初の人物であった。何故なら、ダーウィンの業績は、人類の知的な、創造的な、観念的な生活を見逃していたからである。放射性物質から無限の可分性、原子の永続的な運動、物質とエネルギーは転換できるという概念に至るまで、いかにHPBの仕事が20世紀の科学に先んずる知識を提供しているかということをクランストンは実証している。アインシュタインは、机上に一冊の『シークレット・ドクトリン』を置いていたと報告されている。』
(『ヘレナ・ブラヴァツキーに当てられる新しい光-----コニー・ハーグレイブによる書評』)

 『伯爵夫人(コンスタンス・ヴァハトマイスター伯爵夫人)の注目を強く引き、彼女に不思議な感動を起こさせたのはHPBの「携帯図書」の貧困さであったが、しかし「彼女の原稿は参照文献、および非常に他種の主題に関する珍しい深遠な比喩や引用でいっぱいであった」。これらの著作や文書の中のあるものは、ヴァチカンや英国博物館においてのみ見られるものである。「しかし、それは単に確証のために彼女が必要としたものに過ぎなかった。」伯爵夫人は、「HPBがアストラルの光の中で見、本の表題、章、頁、および図をすべて正確に書き取った」ものの確証を---あるときはオクスフォードのボドレイアン図書館で、またあるときはバチカンにある原稿の中で---友人を通して入手することができた。「毎日毎日そこに座って彼女は長い時間書き続けていた・・・」
 回顧録の中で、バートラム・カイトレーは次のように書いている。---その家に存在しない本からの引用が『シークレット・ドクトリン』にはきちんと参照文献名と共に記載されているのだが、その引用は珍しい本では時には英国博物館で何時間も調査の後に確証されたのである。このようなもので私が見、確認したものも少なくない。それらを確かめたところ、時々、参考文献の数字が逆になっているという奇妙な事実を発見した。例えば、321頁が123頁という具合に、アストラルの光で見た時に対象が逆になっていることを示していた・・・
 HPBは、33日(1886年)に『シークレット・ドクトリン』に関してシネット氏に書いている。「毎朝、新しい展開と光景がありました。再び私は二つの人生を生きています。私がSDのためにアストラルの光の中で意識的に見るのは困難である、と覚者は分って下さり、そういう訳で・・・見なければならないことを夢の中で見せて下さっています。私は大きくて長い巻物の紙を見るのですが、そこにいろいろなことが書かれていて、私はそこから再び集めるのです・・・私は膨大な入門の章、または序文、あるいは序幕を書き上げました。それは、あなたの好きなように呼んでよいのです。読者に本文の流れを示すために、各々の章は、『ザンの書(Book of Dzyan)』と『“マイトレーヤ仏”の秘密の書』からの翻訳の一頁によって始まっていますが、それは作り話ではありません。私はそのように命じられたのです。それは、歴史的に知られているもの、そして文献や古典の中で、世俗的な歴史、そして聖なる歴史の中で知られている事を速やかにスケッチするためです・・・私は、最も尋常ならざるものが現在提供されていることをあなたに保証することができます・・・私は、『イシス』のような本の20巻に相当する事実を知っています。私に欠けているものは言語能力と、それを編集する才覚なのです」』
(『「シークレット・ドクトリン」はどのようにして書かれたか』ジョセフィン・ランサム著)



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ブラヴァツキーこそ高位のイニシエート、真の弟子であった

 ブラヴァツキーこそ真の弟子(ディサイプル)としての姿を私たちに示したのです。私はブラヴァツキーの信頼の回復、真の彼女の仕事に対する正当な評価が与えられる日が必ずくることを信じています。

 『ブラヴァツキーはいったんインドに戻ったものの、かねてから損ねていた心臓と肝臓の病のため、危篤状態でヨーロッパに戻らなければならなかった。
 -----ペテン師ブラヴァツキー夫人!
 こうした罵倒の声に囲まれ、ブラヴァツキーは苦しんだ。世間の誹榜には、無言の軽蔑で無視することが1番だった。敵の土俵で闘っては、ますます関係を悪化させ、敵を利することになるからだ。第一、敵に対する憎しみは、日々、神智学協会の唱える慈悲の心に反する。
 しかし、ロシア貴族エリーナの燃えたぎる血は、50半ばになった現在でも昔のままだった。ブラヴァツキーは神智学運動や大師の存在について攻撃を受けると、自ら課していた自制をかなぐり捨て、ペンをとって火のような反撃を加えた。・・・
 1887年、プラヴァツキーは再度、危篤状態に陥った。肝臓病だった。ロンドンから呼ばれた医師もベルギー人の医師も、診察を終えると首を振った。
 「もうだめた。こんな状態では生きていられることさえ奇跡です」
 遺言にサインしたブラヴァツキーは、すでに死臭を漂わせていた。が、翌朝、驚いたことに病人はベッドで微笑んでいた。
 「きのう、大師様がいらっしゃて、死んで自由になるか、生きて『シークレット・ドクトリン』を完成させるか、どらちにするか、とおっしゃいました・・。」
 奇跡的に蘇ったブラヴァツキーは、その年、ロンドンに移った。そして、執筆を続ける傍ら、新たな機関誌『ルシファー』を刊行した。ルシファーとは、ラテン語で光をもたらす者という意味だが、キリスト教会ではサタンの異名とされている名であった。敢てこの名を選ぶことによって、ブラヴァツキーは、神智学協会の目指す真実から目を背けようという社会全体に闘いを挑んだのである。・・・
 世間の大部分は依然、理解を示そうとはしなかったが、詩人のWB・イエーツ、インドのマハトマ・ガンジー、作家のロマン・ロランやヘルマン・ヘッセなど、彼女の影響を受け、彼女に大きな尊敬を払った知識人も少なくなかった。
 189158日、ロシアのオデッサでは、プラブァツキーの叔母ナジェジェダが不思議な胸騒ぎを覚えていた。・・・
 更に大音響が響き、コップが割れ、家具が床に倒れる音が続いた。驚いて家中を見て回ったが、何も異常はなかった。
 数日後、ブラヴァツキーの死を知らせる手紙が届いた。すると、家中の音は止み、コケメノウの指輪は再び元の黄色に戻った。ヘレナ・ペトローヴナ・ブラヴァツキーの遺体が荼毘に付されたのは511日。遺体は三つに分けられ、ヨーロッパ、アメリカ、インドに祀られることになった。
 「わたしが書いたものが本当に理解されるには、100年がかかるでしょう」とブラヴァツキーは生前語っていた。」』
(『マダム・ブラヴァツキーの驚異の生涯』くとうおん著)

 『チベット仏教についての知識は、その当時の大衆や西洋の学者が入手できる情報よりも豊富であり、彼女はまた秘密仏教の修行についてもよく知っていた。この知識は鈴木大拙博士によっても裏付けられた。彼は述べている。「次の世紀に禅を西洋にもたらした人物であり、疑いもなく、ブラヴァツキー夫人はある意味で大乗の教えのより深いところに参入していた」
 ---それでもアメリカの滞在中に、HPBはトーマス・エジソンのような名声を得ている人々を神智学運動に引きつけることができた。インドでは、ガンジーやジャワハルラル・ネールのような人物が彼女の仕事によって再び伝統的な教えに目を向けるようになった。何世紀にもわたる伝統の価値を否定していたインドのエリートたちは、イギリスの大学で学び、HPBと接触することによって初めて『バガヴァット・ギータ』のような作品を研究するように鼓舞されたのである。
 亡くなった後すぐ、ロンドンの『レビュー・オブ・レビューズ(書評の中の書評)』は次のように書いた。「ブラヴァツキー夫人が成したことは、計り知れないほど偉大なことだった。我々を取り巻く目に見えない世界には、我々自身の真理についての知識よりもはるかに優る知的存在方がおられるというだけでなく、人間がこれらの隠れた沈黙せる方々と交流し、時間と永遠についての神聖な神秘を彼らに教えてもらうことが可能であるということを、彼女のおかげでこの世代の最も教養ある懐疑的な男女が信じることができるようになったからである」
 芸術の分野でHPBの仕事に影響を受けた人々の中には、WB・イエーツ、ジェームズ・ジョイス、DH・ローレンス、TS・エリオット、ソールトン・ワイルダー、L・フランク・ボーム、ヴァシリー・カンディンスキー、ピート・モンドリアン、ポール・クリー、ポール・ゴーギャン、グスタフ・マーラー、ジャーン・シベリウス、アレクサンダー・スクリャービンらがいた。』
(『ヘレナ・ブラヴァツキーに当てられる新しい光-----コニー・ハーグレイブによる書評』)

 『私たちが知っている近代における偉大なディサイプルの中にアリス・ベイリーとHP・ブラヴァツキーがおります。彼女たちはその人生の大半を病気していました。しかし彼女たちは病気が彼女たちの比類なき世界への奉仕を阻むことを許しませんでした。アリス・ベイリーはご存知のように、30年間ジュワル・クール覚者の教えの筆記者として奉仕しました。その間の大部分を、彼女は病気で寝ており、もはや文字を書くことができなくなるまで、文字通り肉体的に一語も書けなくなるまで、ベッドに座って書き続けたのです。もはや書けなくなったとき、はじめてジュワル・クール覚者は伝達の形式を変えて、彼女は内的なスクリーンのようなものに書かれた教えを読み上げてテープレコーダーに吹き込み、それを誰かがタイプするようになったのです。長い月日の間、彼女は極端な肉体的ハンデキャップの中で働きました。
 HP・ブラヴァツキーは最後の13年間位、腎臓やその他たくさんの病気をもっておりました。彼女の師であるモリア覚者によって、彼女が仕事---世界に『秘密の教義』を紹介すること---を完成させることができるように、かろうじて肉体が保たれていました。
 この二人のイニシエートは仕事にあたって意志の力を働かせたのです。肉体を無視しました。家族の不一致やあるいは彼女たちに最も近い人々から非常にしばしば受けた裏切り行為やひどい仕打ちによってもたらされる感情的な興奮状態を無視したのです。彼女たちはそれらをすべて無視して、ディサイプル(ハイアラキーの弟子)としての生き方を貫いたのです---大計画のための自分たちの役割を果たしました。』
(ベンジャミン・クレーム著『マイトレーヤの使命2』弟子道と実践/シェア・ジャパン刊)

 『ブラヴァツキーだけが本当に知っていたと大師に言われた通り、この偉大な殉教者の名誉を回復することは、私達の当面の義務である。ブラヴァツキー夫人を中傷する色々の書物や彼女を取り巻いていた裏切行為や不信をすべて知ったら、さぞかし貴方はびっくりすることだろう。沢山の忘恩や悪意や無知があった。勿論、これらの醜いことはすべて無知から生じている。
 HP・ブラヴァツキーは本当の意味での「殉教者」であった。彼女は、無知の人々の羨やみや中傷や迫害に殺され、SD(シークレット・ドクトリン)の続巻を出すという仕事を完成させることができなかった。こうして人々は最高の可能性を捨ててしまったのである。』
(『ヘレナ・レーリッヒの手紙より』ジェフ・クラーク訳)






   
以上

   宝珠愚者編著 2009.3.23
 
     2017.9.2  各所リンク修正、増筆



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